覚え帳 › ギリシア・ローマの神々 › 第2部 ローマの神々
第7章
ローマの神々を知るには、まずローマという国の歩みと、その宗教の性格を押さえておくとよい。この章では、小さな町が地中海の帝国になるまでの流れと、神話よりも儀式を重んじたローマの宗教のしくみを、キリスト教の時代までたどる。
第1部では、ギリシアの神々と英雄の物語を見てきた。オリュンポスの神々は恋をし、争い、嫉妬し、人間の英雄と深く関わった。ギリシアの神話は、詩人たちが語り継いだ物語の宝庫だった。
ところが、英米の本や映画で目にする神の名前は、ゼウスよりも「ジュピター」、アフロディテよりも「ヴィーナス」であることが多い。惑星の名前も、月の名前も、ローマの言葉から来ている。ギリシアの神話は、ローマという国を通って後の時代のヨーロッパへ渡ったからである。
ただし、ローマ人はギリシアの神話をそのまま受け取ったわけではない。ローマにはもともと自分たちの神々がいて、自分たちなりの祀り方があった。そこへギリシアの物語が重ねられた。だから、ローマの神々を理解するには、ローマという国がどう育ち、どんな宗教を持っていたかを先に知っておくのが近道になる。
ギリシアの神々が「物語の神々」だとすれば、ローマの神々は「儀式と約束の神々」だと言える。この違いが、この章の大きな筋である。
ローマはイタリア半島の中ほど、ティベリス川(現在のテヴェレ川)のほとりの丘の上に生まれた町である。伝承では、前753年にロムルス(Romulus)が町を建てたとされる。ロムルスは軍神マルス(Mars)の子で、さらにさかのぼればトロイアの英雄アエネアス(Aeneas)の子孫だと語られる。この建国の物語は第10章で詳しく扱う。
前753年という年は、後のローマの学者が計算して定めたもので、史実として確かめられたものではない。考古学で分かるのは、パラティヌスの丘などに鉄器時代の集落があり、それが少しずつまとまって一つの町になっていったということである。
伝承では、ロムルスのあと6人の王が続き、王は合わせて7人だったとされる。2代目の王ヌマ(Numa)は神官の職や祭りの暦を整えた王として語られ、ローマの宗教の多くが「ヌマが定めた」とされた。終わりのほうの王たちは、北の隣人エトルリア人の出身だったと伝えられる。最後の王タルクィニウス・スペルブス(Tarquinius Superbus、「傲慢王」)は横暴なふるまいのために追放された、とリウィウスは語る。王たちの事績は物語の色合いが濃く、一人ひとりの話をそのまま史実と受け取ることはできない。
伝承では、前509年に王が追放され、共和政が始まった。共和政とは、王を置かず、毎年選ばれる2人の執政官(コンスル)と、有力者の会議である元老院が国を動かすしくみである。ローマ人は以後、「王」という言葉そのものを嫌うようになった。
共和政のローマは、周りのラテン人の町や山地の民、エトルリア人の町と戦い、あるいは同盟を結びながら勢力を広げた。前4世紀の初めにはガリア人(ケルト系の人々)に町を荒らされる痛手も受けたが、立ち直った。前3世紀の前半には、南イタリアのギリシア人の町も含めて、イタリア半島の大部分を支配下に置いた。
次の相手は、北アフリカの海の強国カルタゴだった。ローマ人はカルタゴの人々をポエニ人と呼んだので、この戦いをポエニ戦争という。戦いは3度にわたった。第1次(前264〜前241年)でローマはシチリア島を手に入れた。第2次(前218〜前201年)では、カルタゴの将軍ハンニバル(Hannibal)が象を連れてアルプスを越え、イタリアで大勝を重ねた。ローマは滅亡の瀬戸際に立たされたが、粘り強く戦って勝ち抜いた。第3次(前149〜前146年)でカルタゴの町は滅ぼされた。同じ前146年には、ギリシアの都市コリントスも破壊されている。
こうしてローマは地中海の西も東も支配する大国になった。ギリシア世界を手に入れたことで、ギリシアの美術品や書物、学者や教師がローマへ大量に流れ込んだ。ギリシアの神話がローマの神々に深く入り込むのは、この時期である。
大国になったローマでは、富の偏りと有力者どうしの争いから、前1世紀に内乱が続いた。ユリウス・カエサル(Julius Caesar)が独裁的な権力を握り、前44年に暗殺された。そのあとの争いを制したのが、カエサルの養子オクタウィアヌス(Octavianus)である。
前27年、彼は元老院から「アウグストゥス(Augustus、尊厳ある者)」の称号を受けた。表向きは共和政の形を残しながら、実際にはただ一人が国を治めるしくみが始まった。これを帝政と呼び、ここからの支配者を皇帝と呼ぶ。アウグストゥスは宗教の立て直しにも熱心で、自ら書き残した『業績録』で、82の神殿を修復したと誇っている。
ローマの北には、エトルリア人という人々が住んでいた。今のトスカーナ地方にあたる。言葉はラテン語ともギリシア語とも系統が違い、まだ十分には読み解かれていない。しかし、町づくりや工芸、宗教の面で、初期のローマに大きな影響を与えた。
神殿の形はその一つである。エトルリア風の神殿は、高い基壇の上に建ち、正面にだけ階段があり、前に深い柱廊を持つ。ぐるりを柱で囲むギリシアの神殿とは違い、正面から見上げる作りだった。ローマの神殿は、ギリシアの柱の様式を取り入れながらも、この「高い基壇と正面の階段」を長く受け継いだ。建築家ウィトルウィウスは、この型を「トスカナ式」として書き残している。
その代表が、カピトリウムの丘に建てられたユピテル神殿である。伝承では、エトルリア出身の王たちが建設を進め、共和政の最初の年に奉献されたとされる。ここにはユピテル(Jupiter)、ユノ(Juno)、ミネルウァ(Minerva)の3柱がいっしょに祀られた。エトルリアにも、天の神と2柱の女神を組み合わせる信仰があり、この3柱の組み合わせはそれと関係が深いと考えられている。
占いの技もエトルリアから来た。いけにえの動物の内臓、とくに肝臓の形を見て神々の意思を読み取る術である。これを行う占い師をハルスペクスと呼び、ローマはエトルリア出身の専門家を呼んで意見を聞いた。雷の落ち方を読む術も、エトルリアの得意とするところだった。
南イタリアとシチリア島には、前8世紀ごろからギリシア人が海を渡って町をつくっていた。こうした町を植民市と呼び、南イタリア一帯は「大ギリシア(マグナ・グラエキア)」と呼ばれた。ネアポリス(今のナポリ)やタラス(タレントゥム)がその例である。ローマ人は、エトルリア人を介して、またじかに、早くからギリシアの文化に触れていた。
ナポリの近くの町クマエも、早い時期のギリシア人の植民市である。ここにはアポロ(Apollo)の神託を告げる巫女シビュラがいたとされる。伝承では、シビュラが予言の書を王タルクィニウスのもとへ売りに来た。王が高いと断ると、巫女は書の一部を焼き、残りを同じ値で差し出した。これを繰り返され、王は最後に残った分を最初の値で買い取ったという。
この「シビュラの書」は、カピトリウムの神殿に納められ、専門の神官団が守った。疫病や天変地異、戦争の大敗など、国が危機に陥ったときに、元老院の命令で書を開き、どの神をどう祀ればよいかを探った。外の神々をローマに迎え入れるきっかけになったのも、多くはこの書である。ギリシア系の予言の書が国の宗教の要に置かれていたことは、ローマが早くから外の神々に開かれていたことを示している。
ギリシアの宗教にも儀式や祭りはあったが、後の世に残ったのは神々の物語だった。ローマの宗教では、重心が儀式の側にある。古いローマの神々には、家族関係や恋の物語がほとんど伝わっていない。そのかわり、いつ、どこで、誰が、どんな言葉で、何を捧げるかが細かく決められていた。
ローマ人にとって大切なのは、神を信じる気持ちよりも、決められたことを正しく行うことだった。祈りの言葉や手順を誤れば、儀式をやり直すこともあった。神々や祖国、家族への務めをきちんと果たす心がけはピエタス(pietas)と呼ばれ、ローマ人の大きな徳とされた。
その考え方の中心にあるのが、「神々との平和(pax deorum)」である。人間が神々への務めを正しく果たしているかぎり、神々は国を守ってくれる。いわば国家と神々との約束である。
この約束が乱れると、神々の怒りが疫病や敗戦、不吉なしるしとなって現れると考えられた。リウィウスの歴史書には、牛が言葉を話した、石の雨が降った、といった不思議な出来事の報告がたびたび出てくる。そうした報告があると、元老院は神官に相談し、償いの儀式を行って約束を結び直した。宗教は個人の救いよりも、国の安全のためのものだったのである。
戦争にも宗教の手続きがあった。宣戦は決まった儀式を経て行い、戦いの前には神々に神殿や競技を捧げると誓いを立てた。勝てばその誓いを果たして神殿を建てた。ローマの町に神殿が増えていったのは、こうした誓いの積み重ねでもある。
ローマの神官は、ふつうの市民、それも政治家が務める役職だった。祭りを取り仕切ることと国を治めることは、はっきり分かれていなかった。神官は個人に仕える聖職者というより、国の儀式の専門家だったと言える。
中心にいたのがポンティフェクス(神祇官)の団体である。暦や祭りの日取り、儀式の決まり、神聖な法を管理した。その長をポンティフェクス・マクシムス(最高神祇官)という。カエサルもこの職に就き、アウグストゥス以降は皇帝が代々務めた。この称号は、のちにローマ教皇の呼び名に受け継がれる。王が追放されたあとも、王が担っていた儀式を引き継ぐために「祭祀の王」という神官職が残されたのも、ローマらしい律儀さである。
アウグルは、鳥の飛び方や鳴き声などから神々が賛成しているかどうかを読み取る神官である。選挙や戦い、公の仕事を始める前には、この占いで神々の同意を確かめた。英語の inaugurate(就任させる)や auspicious(幸先のよい)は、このしきたりに由来する。
ウェスタ(Vesta)の巫女は、かまどの女神ウェスタに仕える6人の女性神官である。少女のうちに選ばれ、長い年月を独身のまま務めた。フォルムにある円い神殿で、国のかまどの火を絶やさず守るのが務めだった。火が消えることは国にとって不吉とされ、巫女は大きな名誉と特権を持つ一方、掟を破れば重い罰を受けた。
フラメンは、特定の一柱の神に仕える神官である。なかでもユピテル、マルス、クィリヌス(Quirinus)に仕える3人が重んじられた。ユピテルのフラメンには、馬に乗ってはならない、といった細かな禁忌が多く課されていたことが伝えられている。
ローマの暦は、ただ日付を数えるものではなかった。一日ごとに、裁判や集会を開いてよい日か、慎むべき日かが記され、決まった日に決まった神の祭りが並んでいた。暦を管理したのはポンティフェクスであり、暦そのものが宗教の道具だった。
古い暦では、1年はマルスの月である3月から始まったとされる。英語の September から December が、もとは「7番目」から「10番目」の月を意味するのはその名残である。前1世紀半ばにはカエサルが暦を大きく改め、太陽の動きに合わせた暦を定めた。これがユリウス暦で、後のヨーロッパの暦のもとになった。
祭りの例をいくつか挙げる。2月のルペルカリアは、パラティヌスの丘のふもとの洞窟にちなむ古い祭りで、若者たちが丘のまわりを走った。4月21日のパリリアは羊と羊飼いの清めの祭りで、ローマ建国の日とも重ねられた。12月のサトゥルナリアは、主人と奴隷の立場が一時ゆるみ、贈り物を交わす陽気な祭りだった。オウィディウスの『祭暦』は、こうした祭りの由来を月ごとに詩でつづった作品で、1月から6月までの6巻が残っている。
国の祭りと並んで、ローマ人の暮らしを支えたのが家の宗教である。家の長である家父(パテル・ファミリアス)が、家の祭りを取り仕切る神官の役を担った。
家には、家を守る霊ラレス(Lares)の小さな祠があり、日々の食事の折に供え物をした。食料庫と家族の暮らしを守るペナテス(Penates)、家長その人を守る霊ゲニウス(Genius)も祀られた。かまどの火は女神ウェスタの宿るところで、国のウェスタ神殿は、いわば国全体のかまどだった。
先祖の霊も大切にされた。2月には死者を供養する期間があり、家族は墓を訪れて供え物をした。家の宗教は、家族と先祖のつながりを確かめる場だった。こうした家の神々は第9章「ローマ独自の神々」で詳しく取り上げる。
ローマの宗教の特徴の一つは、外の神々を受け入れる柔軟さである。戦っている相手の町の神に、ローマへ移ってくれればもっと立派に祀ると呼びかけ、迎え入れる儀式まであった。
よく知られるのが、小アジア(今のトルコ)の大地母神キュベレ(Cybele)である。ローマでは「大いなる母(マグナ・マテル)」と呼ばれた。リウィウスによれば、ハンニバルとの戦争のさなか、シビュラの書に従って前204年にこの女神を迎えた。女神の象徴とされた聖なる石が、船で運ばれてきたという。ただ、この女神に仕える異国風の神官たちの熱狂的な祭りに、ローマの市民が加わることは長く制限された。迎えはしても、ローマのやり方の内側に収めておこうとしたのである。
帝政期には、地中海の東から多くの神々が入ってきた。エジプトの女神イシス(Isis)は、人々を苦しみから救う慈愛の女神として広く信仰された。アプレイウスの『黄金のろば』は、ろばに変えられた主人公がイシスに救われる物語である。ミトラス(Mithras)は、兵士や商人の間で広まった、入信者だけが加わる秘儀の神である。地下の礼拝所の跡が、帝国の各地に残っている。
こうした神々は、国の祭りとは違って、個人の悩みや死後の救いに応えるものだった。国のための宗教だけでは満たされない心が、新しい神々を求めたと言える。
帝政になると、皇帝そのものが宗教の対象になっていった。カエサルは死後、元老院によって神とされ、「神君ユリウス」として祀られた。アウグストゥスも死後に神とされ、その後も多くの皇帝が、亡くなったのち元老院の決定で神の列に加えられた。
生きている皇帝については、扱いが地域によって違った。王を神として敬う伝統のあった帝国の東では、早くから女神ローマと皇帝を並べて祀る神殿が建てられた。ローマの町では、生きた皇帝をそのまま神とすることには慎重で、皇帝の守護霊(ゲニウス)を祀る形が取られた。皇帝崇拝は、広い帝国の人々を一つの忠誠で結ぶはたらきも持っていた。
1世紀、帝国の東の端ユダヤの地からキリスト教が広まり始めた。キリスト教徒は、唯一の神のほかに神を認めず、ローマの神々や皇帝の像に捧げ物をすることを拒んだ。多くの神々を受け入れてきたローマにとって、ほかの神を一切認めないこの態度は理解しにくく、国と神々との約束を乱すものとも見なされた。
3世紀には、帝国の住民に神々への捧げ物を命じる勅令が出され、従わないキリスト教徒が罰せられた。4世紀の初めには、皇帝ディオクレティアヌス(Diocletianus)のもとで大規模な迫害が行われた。
流れを変えたのがコンスタンティヌス(Constantinus)である。313年、彼は共同統治者のリキニウス(Licinius)とともにミラノで合意を結び、キリスト教を含むあらゆる信仰の自由を認めた。これが「ミラノ勅令」と呼ばれるものである。以後、キリスト教は皇帝の保護を受けて急速に力を増していった。
4世紀の末、皇帝テオドシウス(Theodosius)はキリスト教を帝国の正統な宗教と定め、続いて古い神々への捧げ物を禁じた。これをもって、キリスト教が国の宗教、つまり国教になったとされる。千年を超えて続いたローマの神々の公の祭りは、こうして終わりを迎えた。
それでも、神々の名前と物語は消えなかった。神殿の祭りは止んでも、ラテン語で書かれた詩や歴史書は読み継がれ、学校で教えられた。キリスト教の時代に神話がどう伝わったかは、第11章「神話はどう伝わったか」でたどる。
ローマは、伝承では前753年に建てられ、王政、共和政を経て、前27年のアウグストゥスから帝政に入った。その途中で、北のエトルリア人から神殿の形や占いを、南イタリアのギリシア人からシビュラの書をはじめ多くの文化を受け取った。ポエニ戦争に勝って地中海の大国になると、ギリシアの文化がいっそう大量に流れ込んだ。
ローマの宗教は、物語よりも儀式を重んじ、「神々との平和」を保つための国の務めだった。神官は政治家が兼ね、暦は祭りで満たされ、家でもラレスやペナテスが祀られた。外の神々を受け入れる柔軟さと、皇帝を神とする仕組みを持ちながら、4世紀にはキリスト教の時代へと移っていく。次の章では、この儀式の神々の上に、ギリシアの神話がどのように重ねられたのかを見ていく。
王政期の出来事や年代の多くは、後のローマ人が書き残した伝承によるものです。史実として確かめられる範囲とは分けて書いています。
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